11月19日の日曜日、緑区ルネッサンスフォーラムという歴史研究会の案内で、桶狭間の戦いの地を歩いてきました。みどり文芸ネットワークの事務局メンバーと、今回のミュージカルの演出家ほりみか さんと出演メンバーも一緒です。 ミュージカルのタイトル通りの雨。想像以上に高低差がある桶狭間の地形を体感して、「織田信長の勝利に訳がある!」と納得できました。3kmほどのコースですので、皆さんも是非、信長の気持ちになって歩いてみてください。ホントに楽しいですよ。 |
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戦跡巡りは出発点は有松駅。ここが地形的に一番低い所、まさに狭間(はざま)です。 |
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駅を出るとすぐに有松の宿場町。絞りの町として有名で、今でも町並みの中で浴衣などを販売しています。宿場町の雰囲気がとてもよく残っており、最近は観光客が多くなってきました。ただし、ここは江戸時代になってから作られた町で、信長の頃には何もありません。 |
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宿場町から南に向かうと、ひたすら上り坂で、頂上が高根山。今は神社になっていますが、戦後建立されたもの。おけはざま山とともに、この辺を見渡せる高台です。 |
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今川義元軍は、先陣に高根山を抑えさせました。 ここからの眺めると、鳴海に構築された信長軍の砦が一望です。義元はいくさのセオリー通り布陣していたのです。 |
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高根山の東側、生山を越えると、道はどんどん下っていきます。正面は桜花学園大学です。 |
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桜花学園が建っている場所を釜ケ谷と呼び、深い谷間になっています。鳴海の中島砦を出陣した信長軍は、義元軍に発見されることなくこの谷に入り、攻撃のタイミングをはかっていたのだと説明されました。 |
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釜ケ谷が深いこと示すのは、愛知用水の橋。橋の上に滔々と水が流れています。 |
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おけはざま山の頂上に向かう道。今川義元が本陣を置いたのは、おけはざま山だと考えられています。この辺りで一番標高が高く、道も険しいです。義元軍はテキトーに休憩していたわけではなく、万全の布陣をしていたのでしょう。だから油断があった? |
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この辺りが義元本陣だと推定されているそうです。向いの山並みの右方向が幕山、左方向が巻山で、巻山には井伊直盛が布陣していました。直盛は、来年の大河ドラマの主人公である女城主井伊直虎の父で、ここで戦死しています。 |
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釜ケ谷に潜んでいた信長軍の奇襲攻撃を受け、義元はおけはざま山から追い落とされ、低地の田楽坪で討ち取られたと考えられています(諸説有り)。ここは桶狭間の戦い450年目の2010年に古戦場公園として整備されました。 |
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古戦場公園にある今川義元の墓(豊明市にもあります)。いつも花が添えられています。毎年、古戦場まつりの日は、慰霊祭が行われています。 |
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古戦場公園に飾られている両雄の銅像。当時の地形の模したジオラマもあります。 |
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ミュージカルのキャスト&スタッフで記念撮影。 右から二人目が演出家の ほりみか さんです。 |
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古戦場公園からすぐ南の所に、義元の菩提を弔う長福寺があります。義元像もあります。 |
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長福寺は浄土宗の立派なお寺です。1538年に創建されたそうです。 |
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長福寺の境内に、義元の首実検をしたとされる場所があり、慰霊塔も建っています。 |
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長福寺の放生池である弁天池は、血洗いの池とも言われています。この手の話はよくありますね。ちょうど紅葉が血の色のような赤でした。 |
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桶狭間の水源の泉。長福寺の奥にあり、弁天池に流れ込んでいます。義元が桶狭間に陣を置いたのは、このようなきれいな水があったことも理由の一つなのでしょう。 ここは南朝の落ち武者が住み着いたとされる伝説もあり、歴史の深さを感じさせる場所です。 |
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長福寺の門前、大池の脇に、義元の武将瀬名氏俊が軍議を開いたと言われる「戦評の松」。樹齢400年を越す松があったのですが、伊勢湾台風で枯れてしまったそうです。義元の亡霊が出るという伝説もあるそうです。 |
他にも見学した場所が2・3ありますが、点在する戦跡を上手にガイドしていただきました。「桶狭間古戦場保存会」という市民団体があって、本当に熱心に古戦場跡の整備を進めてくれており、説明銘板もわかりやすいです。この地の歴史を大事にしている人たちを裏切らないように、ミュージカル「タイミング~桶狭間に降る雨」をよりよい作品にしなければ、と思いを新たにしました。(文責 林 正敏) |